December 2011
1 post
Dec 18th
Dec 26th
3 notes
August 2009
14 posts
身体と記号
わたしたちの身体表現は、誰にでもすぐに理解可能な「記号」に絞り込まれる。そのとき、残ったものはいっけん冗長に見える。しかし、じつはその残余の部分にこそ「身体」がある。その「身体」につきあうことをわたしたちは捨象し過ぎているのではないか。 ちょうどtumblrで、引用元の要約によって進められたコメントが貧しくなるように。
Aug 31st
13 notes
情動の開く未来
以前、こんな光景をグループホームで見た。 Bさんは、自分の名前も言えないし、出会った人のことを端から忘れていく。何秒かおきに(たぶんワーキングメモリの途切れるあたりで)「あなた、だれでしたかいの?」と聞かれる。そのBさんのもとに、ひさしぶりに娘さんがやってきた。 娘さんが声をかけても、Bさんにははかばかしい反応は浮かばない。ああ、娘さんでも同じなのか、と思った。しばらくして、お昼ご飯前になり、娘さんがみんなに挨拶して、立ち去るべく居間の硝子戸を閉めた。 そのとき突然、Bさんの顔にさっと激しい表情がさした。両手をメガホンのようにして「こっちへこないの?」とはっきり言って、左手で、こいこい、という ように硝子戸の向こうに手招きをした。あいにく、娘さんには声が聞こえないらしく、もう玄関に向かっている。吉村さんが気をきかせて、硝子戸を開けると、...
Aug 31st
2 notes
ちょっとtumblrの位置づけをかえて
メインの日記からの抜粋を貼り付ける、というのをやってみようかなと思います。
Aug 31st
スタントの顔、俳優の肉体
デスプルーフについて スタントとは肉体の代役だ。スタントから見ると、俳優は顔の代役だ。 スタントの顔、俳優の肉体、というのがタランティーノのテーマだ。 タランティーノの映画に出てくる役者はみんなこの身ひとつだ。 どんな二枚目にも肉体があり、どんな筋肉男にも顔がある。トラボルダは靴を脱いで、だらしない足先を靴下で強調しながら踊る。ただ肉体を賛美するのではなく、この世に生まれたことじたいが持つアンバランスさを力に変えてやること。誰もが二本足で、アンバランスに倒れかけながら、それを歩く力に変えていることを映すこと。デスプルーフのかわい子ちゃんが二本足で歩く。映画館を出たわたしにかわい子ちゃんが憑依してふうふうとことばにならない雄叫び、いや雌叫びをあげながら町を一人歩いている。 2007.9 「デスプルーフ」を見たあとに紙切れに書いたメモ
Aug 21st
2 notes
Aug 4th
5 notes
Aug 4th
1 note
Aug 4th
2 notes
カレンダーがカラフルだ。
きれいだなあ。 などと悠長なことを言ってる場合ではない。 白がまるでない、ということは、夏休みがない、ということだ。いやはや、ほんとーに、まとまった休みというものがない。南方にトンズラしたいが、その余裕もなさそう。仕事はまっとうにやっているつもりだが、それを上回る催促が連日来る。その催促へのいいわけを考えるのにも忙しい。そのくせ、大学の将来構想委員なるものになってしまった。将来をバラ色に描くためには現状に余裕がなくてはならぬ。あくせく働くものが将来に対してあげるのは悲鳴でしかない。というわけで、晴れ、ときどき悲鳴、というような文書をちょっと書く。 ...
Aug 4th
Aug 4th
1 note
Aug 4th
赤塚不二夫も知らず
おそ松くんも知らず、そこから生まれたキャラクターも、しぐささえも知らず、ただ「シェー!」という奇怪なことばを叫んでいる者の姿を想像することを想像してみるザンス。そんなシェー!、かっこつきではない叫び声に、直にたどりつくことができる、湯浅湾をきくと。シェー!湯浅湾はいいなあ。シェー!
Aug 2nd
キリトリ線はいらない
あとね(なぜreblogを使わないかって話ね)、スクラップブックを作るときって、自分で何を切り取るかを決めるんだよね。新聞や雑誌を手に取ったとき、そこにはキリトリ線がない。だからどんな輪郭で、どことどこを、どんな風に切り取るかはこちらで決めるしかない。 あらかじめ「キリトリ線」があるものをその通りに切ってぺたって貼っても、あんまり楽しくない。いろんなものが雑然と並んでるのを見つめてるうちに、あ、ここを切り取ってみようかなって思う過程が楽しいんですよ、スクラップブックって。 ...
Aug 1st
33 notes
reblogなきtumblr
tumblrに書き込んで10日あまり。 tumblrユーザーのほとんどはreblogを主に使っていると知ったが、なぜかなかなか使う気になれず、いまにいたるまでreblog数ゼロ。 古雑誌から自分で切り取ったりスキャンして貼り付けるのは好きなので、気軽にスクラップできるreblogは、理屈のうえでは性に合いそうなはずなのだが、なぜかその気にならない。なぜか。 ...
Aug 1st
69 notes
Aug 1st
スイカ陣形
夜、花火を見終わってみんなでスイカ割りをした。 みごと一撃のもとに割れたあと、全員一斉にスイカのカケラを手にとって食べ出す。 ふと顔をあげると、暗がりのなか、全員がまるで仲違いでもしているかのようにあさっての方向を向いている。しかも、えらく前屈みで、お互い距離をとっている。前衛劇の一場面みたいだ。 スイカは食べると汁がこぼれる。浜で食べるからこぼれるのはかまわない。が、服を濡らしたくはないから前屈みになる。食ったら種をぷっぷと吐き出すので、他人に当たらぬよう距離を取る。当てる意志がないことを示すべく、あさっての方を向く。ひとりひとりが以上のような配慮のもとにスイカを食べすすめるうちに、気がつくと全員が違う方向を向いて離ればなれになっていたということらしい。各構成員の局所的な調整によって全体の配置に特異な形態が表れるという、いわばボトムアップ過程の好例である。「S-formation...
Aug 1st
3 notes
July 2009
46 posts
Jul 31st
1 note
Jul 31st
1 note
Jul 30th
Jul 30th
Jul 30th
Jul 30th
Jul 30th
Jul 30th
2 notes
Jul 30th
Jul 30th
Jul 30th
えっとこのまえさー
会話のことばには、相手に特定の構えをおこさせる前置きがたくさん組み込まれている。 たとえば、何かを言い出そうとして「えっと」という。これは、単なる口ごもりとは限らない。会話のやりとりをよくよく分析してみると、相手のことばじりとこちらの言い出しがかぶっているときにしばしば「えっと」ということばが観察される。つまり、えっと、は、相手のことばの終わりかけたところをねらって、ここから自分の話す番が始まるよ、と予告する役割も持っている。相手は、ことばを終えながら、あ、次はこいつが話すのかと身構える。こうして、新しい話題をはなし、きくための、お互いの身構えが整う。 もし相手が身構えていなければ、さらに前置きを続ければよい。 えっと、このまえさー、なんていうのかな、とにかく。 ...
Jul 29th
4 notes
診察券の名前
久しぶりに行った病院で何年も前の診察券を出したら、帰りがけに新しい診察券をもらった。氏名欄にはすでに、それぞれの画の先が細く曲がって伸びた自分の名前が書かれていた。定期入れのクリアホルダに入れたのだが、開くたびにおばけを見るようで、なぜこんなおばけを毎日見ているのだろうと思う。
Jul 29th
記号の骨
じつはwww日記は、ずっと自分でタグを打っていた。 改行のbrも表題のh1,h2,h3も全部そのつど指定して。それが習い性になっていたので格別面倒くさいとも思っていなかったのだけど、こうやって、テキストを整形するためのタグを打たなくてよくなってみると、なんともすがすがしかったりする。もうそういうのは人任せでもいいか〜。誰がデザインしたページでもいいか〜。 スタイルシートにせよ、ブログツールにせよ、このtumblerにせよ、これだけさまざまなデザインがあらかじめ用意されると、逆にテキストの記号性が浮かび上がる。昨日あるデザインの下で書いたテキストが今日は違う意匠をまとう、そんなことに書き手も読み手もなれっこになっている。だから、レイアウトの向こうにあるテキストの骨だけが透けてみえる。wwwで書いていると、テキストは自然と記号の骨を探り当てる。よきにつけ悪しきにつけ。
Jul 29th
3 notes
軒下が弱み
5月にベランダの下をちょっと耕してもうすぐ三ヶ月。 気がつくと、仕事の行き帰りにベランダ下に寄るようになり、そこでうずくまってそれぞれの草の様子を見るようになり、薄暗くなってふいと立ち上がって同じ棟の奥さんを驚かせたりしている。...
Jul 28th
3 notes
間違いの分析から中間分析へ
第二言語習得場面で以下のような問題が指摘されている。 「誤用を見ていれば学習者がどこを間違えるかは見えてきますが、それだけ見ていたのでは、学習者言語の全体像はわかりません。学習者は使いにくい表現を「回避」することができるからです。たとえば、ある学習者が本当に冠詞の使い方がわかっているかどうかは学習者の誤りだけ見てもわかりません。一例として、ある学習者が a book と言おうか the book と言おうか自信がない場合、それが自分の本なら、 my book と言っておけば、いちおう間違いは回避できるからです。」(白井恭弘「外国語学習の科学」岩波新書) このことをシャクターが指摘してから、70年代になって、第二言語習得研究は誤用分析から中間言語分析(学習者の使う言語の全体像を見る分析)へ向かうことになったという。 ...
Jul 28th
エコロジー
田んぼの傍らに、よく回る風力発電機と太陽電池のついた塔があり、傍らにはコイン精米所のプレハブ小屋がある。精米所からはわずか四文字サイズの電光掲示板が突き出て、近所のうどん屋や食堂の宣伝をゆっくり流している。歩く人もほとんどいない通りに掲げられ、行き交う車からはとうてい読めないその一文は、まるで風車の力で物理的にスクロールするかのように右から左に送られていく。精米所の横、かつて田んぼだったところには、古いマンションがあり、さらにその横では原色の看板で焼肉屋が車を誘っている。焼肉屋のそばの田んぼは最近埋め立てられて、広い駐車場を持つコンビニになった。黒雲が近づき、風車は激しく回り出す。文字はあいかわらずゆっくり流れ、土砂降りににじむ。
Jul 28th
2 notes
天気読み
天気は西から変わる。琵琶湖には立ち並ぶ建物もないから、犬上川の土手から西をのぞむと空が広々と見渡せる。朽木の山々の向こうから不穏な雲が次々とやってきて、琵琶湖の上が黒ければ、それはもうすぐ夕立がくる知らせで、それでもまだ雨が降るまでに間はあるから、自転車を飛ばせば助かる。いよいよ近づいてくると、半袖から出た腕に感じる湿り気で、これはよほど濃い雲だなと判る。じっさい空が暗くなる。土手には雨をよける場所がないので急がなければならない。庄堺公園に屋根付きのベンチがあるのは判っている。案の定土砂降りになる。土手を降りて雨宿りしながら、琵琶湖のほうを見る。そこがすこし明るいようなら雨は小降りになるから、そのすきにまた自転車を飛ばす。
Jul 28th
1 note
土手を走る
朝、教え子に自転車で抜かれた。ペダルを止めて坂にまかせると、湿った風の中に、粉っぽい花の匂いがする。遅いヒメジョオンだろうか。
Jul 27th
good sleeping
朝、早起きをして、ひとけのない通りを歩いて、すいた電車の中で存分に考えごとをして、すっかり早起きを味わい尽くすと、手頃な眠気がやってくる。この眠気に乗って眠れば、この朝は言うことなしだけれど、きっと乗り過ごしてしまう。乗り過ごすほどぐっすり眠りたい。ぐっすり、の「ぐ」には、ざぶんと飛び込んでいきなり深みまで潜るような勢いがある。そこからなだらかな海底のような「すり」が続く。降りる駅が来ても間に合わないほど深く。くすりよりも深く、ぐっすりと。
Jul 27th
ここにテキストはない
電車の中で誰かが読んでいるテキストをつい見るともなしに見てしまう。駅が近づき、その人はテキストを閉じて立ち上がる。テキストを持って去ってしまう。ここにもうそのテキストはない、ということしか、ここには書けない。
Jul 27th
1 note
おしゃべりが止む
無口な人がしゃべるようになったとき、その人は幸せになったといえるだろうか。老人のことばかずが増えるのはよい兆候だろうか。少し黙ったほうがいいのではないか。おしゃべりとともに誰かの手が動き、誰かの手の動きにつれてまた誰かの手が動く。しゃべりながらことばが追いつかなくなり、ひとしきりしゃべり終わってみんな黙る。ああ、しゃべってしまったなあと思う。しゃべってしまったことは取り返しがつかない。取り返しがつかないことを認める。
Jul 27th
3 notes
バケツの水
バケツリレーをする人は、水の名前を知らない。それまで誰によって手渡されてきたのか、その履歴を考える暇がない。右から渡されたバケツを左に渡す。できるだけこぼさぬように。渡した手は空になり、疲れたら一服する。
Jul 27th
6 notes
トイレ文
自分のメモを書きつけるつもりで始めたtumblrだけど、reblogしてもらううちに、reblogされやすい文章とはなんだろうと考えるようになる。自分で何度か見直す文章は、意外とreblogされない。もういいやと思った文章が意外にもreblogされる。reblogされる文章は標語に近い。トイレに貼っておくのにちょうどいい。湿った文体。ヒラタキクイムシが掘り返す文体。消臭剤の匂いのする文体。
Jul 27th
11 notes
忘れる、膝を打つ
お年寄りは、忘れる主体だと思われがちだ。 お年寄りは忘れることによってコミュニケーションに愛敬を産む。 忘れることがいかほどのことか。 忘れられて困ることは山ほどある。けれど忘れることは、お年寄りに限らず、すべての人類が負うべき枷であって、忘れることをことさらに難じても始まらない。むしろ、忘れつつ、いかに相手の表情やことばにリアルタイムに反応することができるか、その力がいかに頑健で、年齢にかかわらず居残るかについて考えること。忘れながら、相手のことばに対してぽんと膝を打つ。膝を打てない人にも、口にしたものを呑み込むすばやさ、まばたくすばやさがある。そのすばやさに注意すること。
Jul 27th
1 note
会話へこぎ出すための介助
高齢者の中にはいっけんすると、聴力が衰えているように見え、また声量も下がっているように見える人がいる。こうした人は、ヘルパーさんの力なしには、会話できないように見えることがある。が、たとえば膝を近づけたり、視線をはっきりと送ったり、部屋のテレビを消して静けさを取り入れることで、ずいぶんと話がしやすくなることがある。ヘルパーさんを介さずに直接話を聞くことができ、同じタイミングで笑いあうことができる。この、相手の発話とともに刻々とこちらの表情が変わり、こちらの発話とともに刻々と相手の表情が変わる関係ができると、会話のいたるところに声と表情、表情と声の同期が起こり、濃密な時間が訪れる。残念ながら、ヘルパーの方を介したとき、これほど濃密な感じを得るのはなかなか難しい。機転の利くヘルパーさんは、高齢者がまだ体を後ろに倒しているときは耳元でことばを言い直し、あるいは本人のことばを相手に伝えるが、本人が体...
Jul 26th
カメラ・オブスキュラの時間
スミス記念堂(彦根)でお見せしているのは、外界が暗い室内に映し出されるというもので、それは節穴現象とかカメラ・オブスキュラと呼ばれる、昔から知られている現象に過ぎない。けれど、それは単に、室内に倒立像が写ります、以上、というような瞬間のできごとではない。 ...
Jul 26th
1 note
Jul 26th
5 notes
予兆による充足
さまざまな現象や行為に、未来の予兆を見ることじたいは、人に備わった能力であり、それはしばしば当たる。これに慣れてくると、特定の現象や行為を見ただけで未来が判り、しかも未来を確認しなくとも気に留めなくなる。午前5時過ぎにバタンと玄関で音がするのは新聞が来た音であり、わざわざ起きなくてもよいように。雨上がりの空気が変わると夏が来たのであり、夏を疑う必要もないように。誰も夏自身を見たことはないが、洋の東西を問わず季節が「来た」と言う。季節は予兆だけでできており、予兆によって来たことが充足される。夏は妖精の親玉のようなもので、一本道に立つかげろうも新しい雲も夏のしわざであって、それを疑う人はいない。夏のようにカミサマを信じる人がいて、妖精を信じる人がいる。ぼくは夏しか信じないけど、カミサマや妖精を信じる人がどんな気持ちかは、少し判る気がする。
Jul 25th
54 notes
Jul 24th
6 notes
通り道と抜け殻
5月に摘んだヌカススキを、まだトックリに挿している。 すっかり実は落ちて、からからの茎とさやだけが残っている。茎が葉になり、葉が花になり、花が実になった通り道。ヌカススキの抜け殻。
Jul 24th
冬虫夏草
蝉の幼虫は土の中で木の根と接続し、もはや樹液の通り道となって暮らす。その生活様式も長い年月とゆっくりとした成長ぶりも、動物というよりはむしろ植物に近い。蝉の幼虫からセミタケが生えたものは冬虫夏草だけど、あれは、幼虫に寄生した菌類というより、蝉の正しい抜け殻ではないかしらん。つまり、冬虫夏草の上に花が咲き、蝉が結実するのではないか。木についている蝉の抜け殻は、このプロセスを飛ばした早生まれに過ぎず、ほんとうは幼虫からキノコが生え、その先に蝉の花が咲き、結実したものがいま鳴き続けているのではないか。 地中で密かに伝説を育んできたセミの上に突如キノコが取り憑き、何年かに一度、詩が生まれる。生まれた詩は7日間、定型を鳴き通す。
Jul 24th
2 notes
動物のような詩、植物のような史
グリムによれば、昔話は詩的(poetisch)であり、伝説は歴史的(historisch)である。柳田国男は、昔話は動物的で、伝説は植物的であると指摘している。前者はどこにでも同じ姿を現すのに対し、その土地に根付き固有の成長を遂げるからだ。むかしむかしあるところに、ということばとともに動物は走り出し、土地の名前と共に蔓は繁茂する。どこにでも連れて行ける詩、株分けされる史。今年、お隣さんから分けてもらった伝説がベランダに届きつつある。
Jul 23rd
1 note